2009年07月04日

紙の作り方

紙は、植物繊維から次の手順で作る。

植物繊維をとりだす
紙をすく
脱水・乾燥する
こうした紙の作り方は、古代中国で発明されて以来、基本的には変わっていない。中国で明末の1637年に書かれた天工開物では、竹紙の作り方を次のように記述している。
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斬竹漂塘 - 竹を切り、ため池に漬ける
煮楻足火 - 十分に煮る
蕩料入簾 - 竹麻を簾(れん)ですく
覆簾壓紙 - 簾をひっくり返し、紙を積み重ねる
透火焙乾 - 火を通し、紙を焙り乾かす
伝統的な製紙方法では、原料となる植物や木綿やアサのぼろを、アルカリ性の溶液で煮て、軟らかくする。こうしてとりだした植物繊維は、パルプに相当する。また、古紙を水につけてパルプを作ることもできる。例えば、牛乳パックからパルプを作ることができる。

2009年06月14日

油(あぶら、ゆ)とは動物や植物

油(あぶら、ゆ)とは動物や植物、鉱物などからとれる水と混じらない可燃性の物質。常温で液体のものを油、固体のものを脂と使い分けることがある。高級一価アルコールと高級脂肪酸とのエステルを蝋という。

用途としては食用、燃料用、潤滑油、産業用などに大別される。

植物油や魚の油などには不飽和脂肪酸が多く含まれ、常温で固体である肉の脂などには飽和脂肪酸が多く含まれている。両者をまとめて油脂と呼ぶ。別の言い方では脂肪酸とグリセリンとのエステルのこと。普通の油脂の主成分はトリグリセリド。

不飽和脂肪酸とは炭素鎖に二重結合もしくは三重結合を持つもののことで、α-リノレン酸、ドコサヘキサエン酸(DHA)、エイコサペンタエン酸(EPA)に代表されるオメガ3(n-3系)。リノール酸、γ-リノレン酸、アラキドン酸に代表されるオメガ6(n-6系)。オレイン酸に代表されるオメガ9(n-9系)がある。
ハンドボール
ジーンズ
衛星
フラダンス
白地図
計算化学
茶道
フットバッグ
年金
船舶工学
免疫学
フードテーマパーク
生活習慣病
映画史
スクエアダンス
化学工学
ストリートダンス
地球
人形劇
生態系

飽和脂肪酸とは炭素鎖に二重結合もしくは三重結合を持たないもののことで、パルミチン酸、ステアリン酸等がある。

植物から精製される揮発性の精油(エッセンシャル・オイル)は、比重が軽く水に浮くことから油と称されるが脂肪酸を含まず油脂とは区別される。アロマセラピーに用いられる他、食品の着香料とされるものもある。

植物性のもの [編集]
ひまし油(キャスターオイル)
桐油
ナンヨウアブラギリ油(ヤトロファ油)
烏臼油
亜麻仁油(フラックスシードオイル、リンシードオイル)
ショートニング
サラダ油
白絞油
コーン油
大豆油
ごま油(セサミオイル)
菜種油(キャノーラ油)
サフラワー油(ベニバナ油)
ひまわり油
こめ油
糠油
椿油
パーム油

2009年05月29日

三成は、開戦から2時間を過ぎたころ

まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げた。さらに島津隊に応援要請の使いをだす。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは、宇喜多、石田、小西、大谷の3万6,000ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に運んでいた。ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を衝けば西軍の勝利は確定的となるはずであった。しかし、島津は使者が下馬しなかったため無礼という理由で応援要請を拒否。また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、内応済みの吉川広家に道を阻まれ、参戦できずにいた。
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正午過ぎ、家康は、内応を約していた小早川秀秋隊が動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を加えるように命じる。迷いに迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し松尾山を降り、ここに小早川隊1万5,000の大軍は東軍に寝返った。ただし、松尾山が標高300メートルに達する山であり、戦闘のさなかに火縄銃の音が聞こえるのか、また、大谷隊と藤堂隊が激戦を繰り広げていた松尾山山麓に近付くのは容易ではないといった点から疑問も呈されている[18]。なお、小早川隊の武将で先鋒を務めた松野重元は「盾裏の反逆は武士としてあるまじき事」として秀秋の命令を拒否・離反した。

小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷隊右翼を攻撃する。吉継は予てから風聞のあった秀秋の裏切りを予測しており、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山麓まで押し戻す。ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も[19]小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し敗北を悟った吉継も自刃して果てた。

大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、激戦が続いてる関ヶ原中央に進軍を始めた。ここに、関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定した。

2009年04月25日

超大国

超大国(ちょうたいこく, 英:Superpower)とは、世界全体に対し、政治的・経済的に大きな影響力を及ぼす国家のこと。大国 (great power) よりも影響範囲が大きい。

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具体的には冷戦時代におけるアメリカ合衆国・ソビエト連邦のこと。しかし冷戦構造が崩壊したポスト冷戦時代においては、ソビエト連邦(現ロシア連邦)の影響力は衰退、アメリカ合衆国一国のみを指す。

1945年の第二次世界大戦が終結して後、戦勝国の中でも共産主義政権のもと国力を増強したソビエト連邦と、連合国において中心的な立場を果たし、自由主義・資本主義・民主主義の立場をとるアメリカ合衆国の二国が、世界に対して大きな政治的・経済的影響力を持つようになった。

共産主義勢力の拡大を目指すソビエト連邦(ソ連)と、自由主義を標榜するアメリカ合衆国のそれぞれの影響のもとに、世界各国はソ連寄りの東側諸国とアメリカ合衆国寄りの西側諸国へと二分され、いわゆる冷戦時代が訪れた。これは米ソ両国が世界各国に政治的に働きかけ、それぞれの傘下に置くことで双方に対する外交的牽制を行ったことによる。やがてこのソビエト連邦、アメリカ合衆国それぞれの世界情勢に対する影響力の強さから、両者は超大国と呼ばれるに至った。

ソビエト連邦における共産主義政権の崩壊により、いわゆるポスト冷戦期が到来すると、世界における超大国はアメリカ一国のみと認識されるようになった。共産主義勢力の脅威が後退した現代社会においては、アメリカの一国主義に基づく諸紛争当事国への一方的な軍事介入がしばしば行われ、大きな国際問題へと発展している。とりわけ2001年のブッシュ政権発足後はこの問題が顕著になっている。しかし、強力な大統領制をとるアメリカでは大統領の交代によって方針が大きく変化するため、今後の大統領によっては同国の方針が大きく変化、改善されることもあり得る

過去、歴史的には二国の超大国しか存在した事がない為、超大国となるための条件を明確に規定する事は難しい。ただし試みにその要素を列挙するとすれば、下記のようなものが考えられる。

超大国は、世界中の文化に対して大きな影響力を持った国でもある。また、近年のインターネットの発達により、インターネットの規模、技術、文化発信力も要求される。また、超大国の言語が世界で広く話されている言語であるか、あるいは超大国の国民がそうした言語が得意であるかどうかも重要な要素となる。

2009年04月08日

ブーガルー

ブーガルー(Boogaloo, Bugalu)は、1965年から1970年ごろにかけて主にニューヨークで流行したラテン音楽の一種。リズム・アンド・ブルース、ソウル、ロックンロールなどの米国のポップミュージックとキューバ〜カリブ系のラテン音楽が混合されたサウンドが特徴。

楽器編成 [編集]
ティンバレス、コンガなどのパーカッション、ピアノ、ベース、管楽器、ボーカルと、マンボなど他のラテン音楽を踏襲している部分もあるが、エレキギターが入ることも多い。

歌詞 [編集]
一般的に英語で歌われるものが多い。ただし、スペイン語で歌われるものも少なくはない。

楽曲 [編集]
2コードまたは3コードの繰り返しを多用した、明るいパーティーミュージック的なものが多い。その一方で、ヘヴィな味わいを持った作品も多い。また、シンガリンと呼ばれる一群のサウンドも、リズム・アンド・ブルースの影響が濃いラテンという意味において、実質的にブーガルーと同じ範疇でくくられることが多い。

演奏 [編集]
1960年代後半の当時は、オーディションでかき集められた10代の若年プレーヤーも多かったようで、演奏は、必ずしも高度とは言えないものもある。

歴史的意義 [編集]
ブーガルーが、米国のポップミュージックの影響をあまりにも濃く受けた反動と、黒人公民権運動の影響とにより、70年代以降は、キューバ音楽の伝統により近い要素を備えたサルサが、カリブ〜ラテン民族としてのアイデンティティを打ち出す意味も込められて、盛り上がって行ったとされている。この為、ブーガルー自体は「一過性の流行」「時代のあだ花」などと軽視される傾向があり、例えば、ティト・プエンテ(Tito Puente)などは、後年、メディアに対しブーガルーをあからさまに嫌悪する発言を残している。ただし、そうしたムーブメントの勢いの中から次世代を担うアーティストが誕生していることも事実である。ウィリー・コロン(Willie Colon)、ルベン・ブラデス(Ruben Blades)などサルサの大物ミュージシャンが、初期にブーガルーを演じていることはその証左といえよう。また、ブーガルーの持つ雑食的なわい雑さが1970年代ニューヨーク・サルサに受け継がれたことは事実であり、ブーガルーなしではその後のサルサはなかったと言うことができる。

近年の動向と評価 [編集]
近年はクラブカルチャー勢力によるブーガルー再評価の潮流の中で、さらに広い音楽的解釈のもと、70年代中盤のラテン・ファンクやラテン・ジャズの一部までをもブーガルーとして捉える動きもある。また、それとは別の動きとして、本土USAでブーガルーが廃れた現在でも、コロンビアではサルサ的要素の強いブーガルーが演奏され続けられている。

そして、上述のとおり、近年は欧州の若手クラブ・ミュージシャンによるブーガルー再評価の動きが強まっており、今後もブーガルーはその歴史的評価を増して行くと推測される。

代表的なアーティストとアルバム [編集]
ジョー・バターン「Subway Joe」 1968年
ジョー・キューバ「My Man Speedy!」 1967年
レブロン・ブラザーズ「Psychedelic Goes Latin」 1967年
ピート・ロドリゲス「I Like It Like That」 1966年
レイ・バレット「Acid」 1967年

スノー モヘア サイトシス ネグロ ノンフ バルカ バチス ほうじゅん フラー レンズフ ラリア だるま ネコヤ ストリ ステッキ クスノキ サーベル シシウド スタジ レトリック ハイカラ マジッ ローレル シンデレ 交響曲 ブランク ウバイ リアル ブレス ゲイン ガイドヨニ ギアナユ パール ずきん テロップ パイレ ロコ リスボ ジャンク 冬中夏草 女神 ジャンプ亭 ケープ ノーダ オーバー フィアン イカの石 コロラド おみたま おもちゃか

2009年03月24日

日本における呼称と使用

日本においては、書類上で上記の幾つかの方式を区別せずひとくくりで済ませていた。そしてこれらをリンクに注目して連環連結器と呼称する場合と、緩衝器(バッファー)に注目して緩衝連結器と呼称する場合がある [2]。

また連環連結器には上に述べた、ねじ式(螺旋連結器)、ピン・リンク式の他に、狭義の連環連結器がある。日本で「螺旋連結器」と(狭義の)「連環連結器」を区別する場合は、前者はねじ式のもの、後者は大きな鎖のようなリンクを掛けるだけのものを指す。

日本では1900年10月の鉄道建設規定で、列車の連結は特別の場合を除いて、複式連結とし、一方から螺旋連結器を掛け渡して締めつけたあと、さらにその上から他方の連環連結器を掛けることとなっている[3][4]。またこれをまとめて螺旋連環連結器とも呼ぶ。

このように日本の幹線鉄道では螺旋連結器は単独では使用されず、連環連結器と併用されるのが原則であったが、輸送単位の小さな地方私鉄では、螺旋連結器を装備していても連結解放作業の手間を省いて連環連結器だけをフックに引っかけて使用する(当然ながら遊間が大きくなり、乗り心地に影響する)、あるいは螺旋連結器装備で認可を得ても実際には連環連結器だけ装着して使用する、といった手抜きを行うケースが少なからず存在した
ねじ式連結器 [編集]
車両に付いたフック同士をねじによる締結機構付きのリンクで連結する連結器で、螺旋連結器とも呼ばれる。ヨーロッパでは21世紀初頭現在でも高速鉄道を除き、広く使用されている。

連結器本体は引張力を伝達するためだけに使用され、車端中央に配置されたフック・リンクによって形成される。推進力の伝達は連結器ではなく、車端に配置された緩衝器(バッファー)を介して行われる。

バッファーは通常、車端中央に設けられたフックの左右に各1基ずつ設置されるが、低規格な鉄道では車端中央のフック直上に1基のみ設置とした例があり、これは日本では伊豫鉄道がその開業に当たり採用したことで知られている、

さらにはこれの亜種として、車端中央部にバッファーを1基設け、その直上を支点として、バッファーの伸縮軸線と直交するように左右枕木方向に釣り合い梁を伸ばし、その両端で各1本のリンクを接続するタイプの物がドイツなどで使用されていた。これはリンク1本使用での牽引定数の不足を補い、かつリンクを単純に2本使用することによる曲線通過時の各リンク間の引っ張り力の不均等を防ぐべく考案されたもので、低規格ではあるが一定以上の輸送力を求められる野戦軍用軽便鉄道を中心に普及し、日本でもドイツ流の野戦軍用軽便鉄道システムをそのまま輸入して使用した鉄道連隊が採用した。

その後1925年に全国一斉に自動連結器への交換が実施されたため(詳細は下記#日本での自動連結器化)、ねじ式連結器はほとんど見ることができない。国鉄等で標準的に採用されていたバッファを左右に装着するタイプのものは、博物館明治村に動態保存されている明治時代の蒸気機関車・客車で、現役の姿を見ることができる。[6]

連結・解放のしくみ [編集]
緩衝器同士を接触させ、やや圧縮させた状態で双方の車両を静止させる。
一方の車両の格納用フックに掛けて格納してあるリングを、相手側フックに掛け渡す。
リングの中間にあるねじ機構のハンドルを、正面から見て右方向に回す。先端側のねじは逆ねじになっているため、右方向に回すとリングは短くなり、引張状態となれば連結状態である。この機構はちょうどターンバックルのねじ部が逆になっていると考えることができる。
切り離し時はハンドルを左方向に回し、リングをゆるめ、格納用フックに掛けて格納すると、切り離し完了となる。

インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア

2009年03月09日

アガサ・クリスティ

アガサ・クリスティ DBE(Dame Agatha Christie , DBE、1890年9月15日 - 1976年1月12日)は、イギリス生まれの推理作家である。発表された推理小説は世界的なベストセラーとなり「ミステリの女王」と呼ばれた。フルネーム(in full)はアガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ(Agatha Mary Clarissa Christie)。英国推理作家のクラブであるディテクションクラブの会長(4代目)。

1920年のデビューから亡くなるまで長編小説66作、中短編を156作、戯曲15作、メアリ・ウェストマコット(Mary Westmacott)名義の小説6作、アガサ・クリスティ・マローワン名義の作品2作、その他3作を執筆。ほとんどが生前に発表されている。中でも『アクロイド殺し(1926)』『オリエント急行殺人事件(1934)』『ABC殺人事件(1936)』『そして誰もいなくなった(1939)』は世紀をまたいで版を重ねている。推理の謎解きをするエルキュール・ポアロ、ミス・マープル、トミーとタペンスといった名探偵産みの親でもある。

そのファンからなるアガサクリスティ協会によると、彼女の作品は英語圏を越えて全世界で10億部以上出版されている。聖書とシェイクスピアの次によく読まれているという説もあり、ユネスコの文化統計年鑑(1993)では「最高頻度で翻訳された著者」のトップに位置している。ギネスブックは「史上最高のベストセラー作家」に認定している。日本でも早くから紹介され、早川書房はクリスティー文庫としてほぼ全ての作品を翻訳している。

彼女が作品を発表した20世紀始めは保守的な風潮が世間に残っており、トリックに対するフェア・アンフェア論争が起こったり、犯人の正体がモラルの面から批判の的になるなど是非が論じられていた。同時にラジオや映画といったメディアが発達していたことで作品が広く知られることにもつながった。性格は人見知りの傾向をもち失踪事件(1926)でマスコミの餌食とされたこともあり意識的に表舞台と離れるようになったが、これが神秘的なミステリの女王伝説につながっていった面がある。戦時中に奉仕活動のため薬剤師であった。
パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

略歴
1890年9月15日 イギリスの保養地デヴォン州のトーキーにて、フレデリック・アルヴァ・ミラーと妻クララの次女、アガサ・メアリ・クラリッサ・ミラーとして生まれる。正規の学校教育は受けず母親から教育を受ける。
1901年 父が死去。この頃から詩や短編小説を投稿し始める。ちなみに、詩や小説を書くことになった理由は、インフルエンザにかかり、読む本がなかったからだという。
1909年 自身初の長編小説『砂漠の雪』を書き、作家イーデン・フィルポッツの指導を受ける。
1914年 アーチボルド・クリスティ大尉と結婚。第一次大戦中には薬剤師として勤務し、そこで毒薬の知識を得る。
1919年 娘ロザリンドが誕生。
1920年 数々の出版社で不採用にされたのち、ようやく『スタイルズ荘の怪事件』を出版、ミステリ作家としてデビューする。
1926年 『アクロイド殺し』を発表。大胆なトリックと意外な真犯人をめぐって、フェアかアンフェアかの大論争がミステリファンの間で起き、一躍有名に。また、母が死去する。この年アガサは謎の失踪事件を起こす。
1928年 アーチボルトと離婚。アーチボルドは愛人と再婚。
1930年 中東に旅行した折に、14歳年下の考古学者のマックス・マローワン(1904年5月6日-1978年8月19日)と出会い、9月11日再婚する。
1943年 『カーテン』及び『スリーピングマーダー』を執筆。死後出版の契約を結ぶ。
1952年 書下ろしの戯曲『The Mousetrap』の世界最長ロングラン公演(1952年11月25日? )始まる。
1956年 大英勲章第三位 (CBE) 叙勲。
1971年 大英勲章第二位 (DBE) 叙勲。
1973年 『運命の裏木戸』を発表。最後に執筆されたミステリ作品となる。
1975年 『カーテン』の発表を許可する。
1976年1月12日 高齢のため風邪をこじらせ静養先のイギリス・ウォリングフォードの自宅で死去。死後『スリーピングマーダー』が発表される。

失踪事件
アガサ・クリスティ失踪事件とは、ロンドン近郊の田園都市サニングデールに住んでいたアガサ・クリスティ(当時36歳)が1926年12月3日、自宅をでたまま行方不明となった事件を指す。これが推理小説の歴史に名を残す大事件、すなわち Agatha Missing である。事件は11日後に保養地のホテルに別人名義で宿泊していた彼女が家族の確認のうえで保護されることで決着した。

なぜ失踪したのかについては諸説あり、伝記作家もこの件については筆を大きく割いている。自伝でも事件について触れているが明確な理由は判然としない。しかしこの事件の結果としてマスコミにより喰いものにされたアガサが心に傷を負った点、そしてこれ以降のアガサの内面世界は徐々に変化を見せた点は諸子一致している。

とくに別名義で書かれた小説群は女性の孤独、愛することの傲慢さ、残酷さが見事に表現されて多くの女性の読者を集め、中でも奇跡的な容姿を備え家族にも恵まれた女性の残酷な内面の旅を描いた『春にして君を離れ』(早川書房/中村妙子訳)は日本を含めた世界でロングセラーとなっているが、早川書房の解説では真の本好きしかこれらの書籍には手を出してはいけないとする意見まである。

事件に戻ると、当時のアガサはロンドンの金融街で働いていた年下の夫のアーチー、一人娘のロザリンド(当時7歳)と田舎の大邸宅で暮らしていた。アーチーは休日はゴルフに熱中しているが、妻はゴルフはせず家事はメイドを雇い、仕事に関しては秘書のシャーロットを住まわせていた。シャーロットはアガサの信頼を得て長く彼女の側で勤めることになる。

キャリアにおいては『アクロイド殺人事件』(1926)によりベストセラー作家の仲間入りを果たす一方で事件の前には最愛の母親を亡くし、また夫には別に恋人がいた事実にアガサは傷つけられていた。事件の起きた日、アガサは住み込みのメイドに行き先を告げずに外出する旨を伝え、当時は珍しかった自動車を自ら運転して一人で出かけている。その際に彼女は秘書のシャーロットと夫に手紙を残している。

2009年02月20日

大艦巨砲主義

大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、1906年以後1920年代まで、世界の海軍がその主力たる戦艦の設計・建造方針に用いた考え方である。この時代は戦艦が海軍力の基幹(主力)として最重要視され、列強各国は攻撃力の主力たる巨砲を装備した新鋭戦艦の建造競争を行った。そして戦艦を保有する海軍においては、巡洋艦や駆逐艦などの戦艦以外の艦艇は「補助艦」として扱われ、「主力艦」たる戦艦のサポート役と位置づけられたのである。また戦艦を保有できない中小国の海軍においても、海防戦艦と呼ばれる艦を建造し、せめて戦艦に近い能力を持つ艦を保有しようと努力した例も多々見られた。この時期において戦艦は戦略兵器であり、他国より強力な戦艦を保有する事は、その国の国威を示すものであった。
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

戦艦の建造競争は1922年のワシントン軍縮会議の締結により一旦中断したが、1937年の条約明けで一斉に再開した。しかし1939年ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、欧州各国では建艦に手間のかかる戦艦の建造が遅れ気味になった。さらに緒戦の航空機の活躍を受けて、大戦中期以後海軍の主力の座を航空母艦に譲り新しい戦艦は建造されなくなった。

この語は、比喩として用いられることもある(→#比喩表現としての「大艦巨砲主義」)。

1906年にイギリスで完成したドレッドノートは、従来の戦艦に比べて飛躍的に向上した攻撃力と機動力を有していた。これ以後世界の海軍はドレッドノートに準じたド級(弩級)戦艦や更に強力な超弩級戦艦を大量に建造した。戦艦の攻撃力は主砲の大きさで決まる。敵艦より大きな主砲を備え、敵弾に耐えられる厚い装甲を備えた戦艦が海戦では有利である。その結果、戦艦とそれに搭載される主砲は急速に巨大化し、また数量で他国に負けないために大量建造が行われた。日英独は戦艦と同じ巨砲を持つ巡洋戦艦も建造した。戦艦の建造は1922年のワシントン軍縮会議で全て中断されたが、この時期の戦艦の設計・建造方針を「大艦巨砲主義」と呼ぶ。竣工年、排水量、主砲の推移を下記に示す。

1902年 15220t 30.5cm砲 4門 日本戦艦三笠
(大艦巨砲主義の始まる前)
1906年 18110t 30.5cm砲 10門 イギリス戦艦ドレッドノート
1912年 22200t 34.3cm砲 10門 イギリス戦艦オライオン
1913年 26330t 35.6cm砲 8門 日本巡洋戦艦金剛
(1番艦のみイギリスで建造、また改装後は戦艦)
1915年 29150t 38.1cm砲 8門 イギリス戦艦クイーン・エリザベス
1920年 32720t 41.0cm砲 8門 日本戦艦長門
建造中止 41200t 41.0cm砲 10門 日本巡洋戦艦赤城
(航空母艦として完成)

建造数については第一次世界大戦中の1916年までがピークで、1910年からの7年間に全世界で竣工した戦艦は100隻を越える。7年間に建造された戦艦+巡洋戦艦の数を国別に列記する。

イギリス 40隻 (チリとオスマントルコが発注した各1隻の戦艦を含む)
ドイツ 25隻
アメリカ 14隻
日本 7隻
フランス 7隻
イタリア 6隻
帝政ロシア 6隻
オーストリア帝国 4隻
アルゼンチン 2隻
ブラジル 2隻
スペイン 1隻

ワシントン条約明け後、列強の海軍は一斉に戦艦の建造を再開した。アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・ドイツはワシントン条約に準じた(公称)35,000tクラスの戦艦を建造した。これらの戦艦は主砲として35.6cmから40.6cm砲を採用し、航空機対策として多数の対空火器を装備していた。

また、日本海軍は同時期に他国の戦艦をはるかに凌ぐ、64,000t級の大和型戦艦を建造した(大和、武蔵。三番艦・信濃は途中で空母へ改装)。日本は大和型よりも大型の51cm砲を積む超大和型戦艦の建造を予定していた(戦中に計画中止)ほか、米英仏独ソも35,000トン級を凌駕する巨大戦艦の建造を計画していた。すなわち、当時の各国海軍上層部は依然として「大艦巨砲主義」的な発想を持っていたと考えられる。しかし、直後に始まった第二次世界大戦では、海軍の主役の座は航空母艦に移り戦艦は脇役となった(これは日米の話であり、欧州では大戦後期まで主力艦として扱われていたことに注意)。ワシントン条約期間中に建造されたフランス戦艦ダンケルク級(1937年竣工)以後、第二次世界大戦終了後までの9年間に建造された戦艦は27隻であった。

大和型は6万トンを超す大艦であり、45口径46cm砲という巨砲を備えた大艦巨砲主義の申し子であった。戦艦との戦闘では優位に立てたはずの大和型も航空機には勝てず、大和、武蔵ともにアメリカ海軍航空母艦搭載機の集中攻撃を受けて沈没した。また大和型の他にも連合国・枢軸国を問わず多数の戦艦が、航空機や潜水艦の攻撃で沈没した。

第二次世界大戦前または戦中に建造が開始され、戦後に完成したイギリスのヴァンガードとフランスのジャン・バールを最後に、新たな戦艦は建造されていない。

戦艦と射撃システム
戦術的に見ると、大艦巨砲主義の進展は、射撃管制装置とも関連している。ドレッドノートが画期的だったのは、多数の主砲の射撃管制を可能とする射法の完成あってのことであった。1940年頃まで各国の戦艦は、光学式測距儀と方位盤射撃を用いた射撃管制装置を主用していた。だが、米英では1941年以降、レーダーの実用化により、着弾観測については光学式測距儀よりも、レーダーを使用した電測射撃に移行していった。これに対し、米英に格段に劣り、電測測距と併用したものの、光学式測距儀を最後まで実戦で主用したのが日独であった(フランスはすぐに敗戦したため、射撃用レーダーを搭載したものの、その真価は不明であった。イタリアは終戦時まで対空見張り用レーダーのみであった)。

光学式の測距は特に遠距離射撃において誤差が大きく、近距離においても夜間、曇天、悪天候などで視界の悪い時にも、レーダー管制に劣っていた。そのため、水上艦艇同士の戦闘において、電測射撃が行えることは、かなり優位だった。ただ、初期の射撃用レーダーは測距性能は充実していたものの、方位探知角が不足しており、時には光学観測射撃に遅れを取ることもあった。

大艦巨砲主義の終焉
他国より大型の戦艦、巨大な主砲を搭載するという、文字どおりの大艦巨砲主義は、ワシントン条約明け後には終焉していたと言ってよい。日本の大和型戦艦を例外として、主砲口径の増大には歯止めがかかり、前代と同程度、あるいはやや小型化した主砲の採用例が多くなった。これはユトランド沖海戦の戦訓を元に、速力・防御力とのバランスの取れた戦艦の設計が重要視されたからである。しかしながら、戦艦が戦略兵器であり、国威を示すものであるという認識は、未だに健在であった。

広い意味で大艦巨砲主義の終焉といえるのは、第二次世界大戦であろう。上述のとおり航空機の発達により、真珠湾攻撃やマレー沖海戦で航空機の戦艦に対する優位が確立し、戦艦の時代が終焉したとされる。戦艦の主な役割は、対地砲撃や防空艦としての機動部隊護衛などへと変わっていった。そして第二次世界大戦終了後は、そういった任務に用いるには戦艦は高価な艦であるとされ、大戦中より建造途中であった艦を除いて、戦艦の新造は全くなされなくなった。

ただし、第二次世界大戦における戦艦の時代の終焉は、いささか時期尚早であったという意見がある。第二次世界大戦において航空機によって戦艦が撃沈された例を見ると、彼我の航空戦力に圧倒的差のあるケースばかりである。航空機の脅威が周知のものとなった場合には、当然ながら戦艦を航空機によって護衛することとなり、その状況において航空機が戦艦を撃沈するのは、極めて困難とされた。それはレイテ沖海戦で実証された。また、20世紀末になっても異論が出ている。SAM及びCIWSによる高い精度の管制対空射撃が可能な現在、それらを搭載するプラットホームとして巨大な上、防御力の高い戦艦は、現代戦においては逆に撃破困難なのではないかというものである。接近さえ許されるのであれば戦艦の巨砲は航空機よりも時間当たりの効率が良い兵器となる。事実、湾岸戦争で米海軍は戦艦を運用した。

しかしながら、それらはいわば戦艦の利用価値を見切る事に対する異論であった。仮にそれら異論が正しいにしても、第二次世界大戦以降も継続して用いられている巡洋艦や駆逐艦などと同様に、戦艦もまた価値を有するという意見に過ぎない。戦艦が戦略兵器であり国威を示すものだという時代、戦艦以外の艦を補助艦とみなし戦艦のみが主力艦として海軍の主役を占める時代が、第二次世界大戦をもって終了した事に対しては、異論は存在しないと言える。

日本海軍における大艦巨砲主義
日本海軍では、日露戦争時の日本海海戦において大艦巨砲と艦隊決戦を至上とする考え方が確立され(当時としては日本海軍に限ったものではなかったが)、その後も太平洋戦争後半期まで軍令・戦術上の主流となった。長駆侵攻してくる敵艦隊を全力で迎撃、撃退するのが基本方針であり、その際の主役は戦艦とされ、空母・巡洋艦・駆逐艦等は脇役に過ぎない。結果的に日本海軍が真珠湾攻撃やマレー沖海戦において大艦巨砲主義を終わらせたのは、主役である戦艦を出す前の「露払い」としての航空機が、予想外の戦果を出した事に他ならない。南雲機動艦隊は地球を半周するほど縦横無尽の活躍を見せるが、主役登場以前の脇役の活躍であった。

しかし実際の航空戦力の活躍により、ようやく設計・建造方針における大艦巨砲主義が終焉する。艦政本部を中心に時代の趨勢に沿った方針となり、連合艦隊も空母中心の第三艦隊が中核をなした。しかし、軍令・戦術方針における大艦巨砲主義が依然根強く、あくまでも戦艦中心の第一艦隊があっての第三艦隊という編成であった。1944年2月に第一艦隊が廃され、翌月に第一機動艦隊が創設されたことにより、ようやく軍令・戦術方針においても大艦巨砲主義が終焉を迎え、機動艦隊が最重要視されることとなった。しかし、戦局は既に終盤にあり、退潮の趨勢を変えることはできなかった。

比喩表現としての「大艦巨砲主義」
第二次世界大戦の状況を受けて、現在はこの言葉を経済運営や企業経営の分野において、マスコミや経営コンサルタントが批判的に揶揄として使うことが多い。すなわち、過去の成功例にとらわれた発想で作られた、柔軟性に乏しい過大なシステムを『大艦巨砲主義』になぞらえ、失敗例の解説や警鐘を鳴らす場合に比喩的に用いる。また、プロ野球で4番打者(級)などホームランバッターを重視(=足技が使える打者を軽視)したり、そういう打者をかき集めてチームを構成すること(例えば一時期の読売ジャイアンツ

2009年02月04日

蠣崎氏/松前氏(かきざきうじ/まつまえうじ)

蠣崎氏/松前氏(かきざきうじ/まつまえうじ)は戦国時代に蝦夷地を本拠とした戦国大名。江戸時代に松前氏(まつまえし)と改姓したが、庶流の中には引き続き蠣崎氏と名乗る者もいた。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流 河内源氏の傍系 甲斐源氏 武田氏の庶流にあたる。実際には陸奥の土豪が蝦夷へ移住して源姓武田氏を仮冒した、とする説もある。
モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

若狭武田氏又は南部氏の流れを汲む武田信廣を祖とする。宝徳3年(1451年)に若狭から下北半島の蠣崎(むつ市川内町)に移り、その後に北海道に移住してその地を治める豪族となった。時代は京の室町の足利氏が征夷大将軍の時代である。当時道南には、和人が独立した12の館を築き、そこを拠点にアイヌと北方貿易を行っていた。花沢館主蠣崎季繁もその一人にすぎなかった。長禄元年(1457年)、和人とのトラブルを契機にアイヌのコシャマインが中心となり、和人への武装闘争(コシャマインの戦い)が発生すると、12館の内10の館がアイヌに落とされた。激戦の末、蠣崎季繁の客将武田信広が鎮圧する。これにより、蝦夷地の和人社会において蠣崎氏が優勢となり、支配を確固たるものとした。また、武田信広は蠣崎季繁の婿養子となり、蠣崎氏を継承して蠣崎信廣を名乗り、拠点を勝山館に移した。文明7年(1475年)には、樺太アイヌの首長から貢物を献上され、樺太にも影響力を及ぼした。戦国時代に入ると主家である安東氏から実質的に自立の傾向を見せる。蠣崎義廣の時代にはアイヌの酋長・タリコナを謀殺し、その子の蠣崎季廣の時代には13人の娘を安東氏などそれぞれの奥州諸大名に嫁がせて政治的な連携をはかり、戦国大名としての地位を築き上げたのである。

松前氏
蠣崎季廣の子・蠣崎慶廣の代には上洛して、天下を平定した豊臣秀吉(関白、太閤)に拝謁することで本領を安堵された。これによって秋田氏(旧安東氏)から名実ともに独立する事になった。天正19年(1591年)、秀吉の命に応じて九戸政実の乱に参陣。秀吉の死後は徳川家康に接近して慶長4年(1599年)、姓名を松前慶廣に改める。その後、慶長8年(1603年)徳川家康は征夷大将軍の宣下を受ける。こうして征夷大将軍のお墨付きを得て松前と改めた蠣崎氏は、江戸時代を生き抜くことに成功したのである。当初は米が穫れない蝦夷において無石の島主扱いに過ぎなかったが、5代・矩広の代に交代寄合を経て、享保4年(1719年)には大名に昇格し正式に1万石格の松前藩藩主となった。

明治維新以後
明治維新の際に松前家は函館戦争などで官軍に属して戦うなどしたものの、いまひとつ大きな戦功がなかった。その後も、華族の子爵には列したものの全般的には不遇の時代を送ることが多かった。太平洋戦争時にも当時の当主が陸軍上等兵で出征、戦死するという他家には無い苦難にも見舞われている。現在は横浜市に居住している。

系図
       ┃
      蠣崎季繁
       │
       信広
       ┃  
       光広 
       ┣━━━━━━━┓
       義広      高広
       ┃       ┃
        季広      基広
       ┣━━━┳━━━┓     
       舜広  慶広  守広
       ┏━━━┫
       盛広  忠広
       ┃   ┃
       公広  直広
       ┃   ┃
       氏広  本広
       ┃   ┃
       高広  邦広
       ┃   ┃
       矩広  資広
       ┃   ┃
       富広  道広
           ┃
           章広
           ┣━━━┓
           見広  崇広
       ┏━━━┫
       昌広  良広        
       ┃
       徳広
       ┃
       修広

蠣崎 季繁(かきざき すえしげ、生年不詳 - 寛正3年5月12日(1462年6月9日))は、室町時代中期の武将。上之国花沢館(現在の北海道檜山郡上ノ国町)の館主。若狭国の生まれ。上国守護職。

若狭国の守護武田信繁の近親で、蝦夷地に渡って下之国安東政季の娘婿となり、蠣崎氏を名乗って花沢館に住んだとされるが、様々な伝承があり定かではない。

『新羅之記録』によれば、政季は1456年(康正2年)、分家で秋田郡の領主であった秋田城介安東尭季(惟季)の招きに応じ秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)に移る際に、茂別館主の安東家政(下国守護)、大館館主の下国定季(松前守護)、花沢館館主の季繁(上国守護)の3名を「守護」に任じたとされているが、実態は安東家政或いは安東定季が一人守護として統括していたとする見解[1]も出されている。

1457年(長禄元年)コシャマインの乱の際、客将武田信広は和人軍の総大将として乱を鎮圧したことから、養女(安藤政季の娘)を嫁がせ家督を継がせたとされる。

蠣崎義広(かきざきよしひろ、文明11年(1479年) ? 天文14年(1545年))は蠣崎光広の子。蠣崎信広の孫。

永正9年(1512年)蝦夷地東部の村長であったショヤ(庶野)とコウジ(匐時)の兄弟が率いるアイヌ民族が蜂起し、数カ所の館を襲撃した際には、上国守護職であった父光広とともに撃退し、永正11年(1514年)にはアイヌ勢に陥とされていた松前大館に入城した。

主君安東尋季の裁定により家督相続前であったにもかかわらず、義広が上国松前両守護職に補任され、蝦夷地を訪れる和人の商船から運上を徴収することを認められた。運上の過半は安東氏に送られたものの、蠣崎氏が他の渡党へ優越する体制は、これにより固まった。なお、このアイヌ蜂起を光広による謀略とする説がある。

大永元年(1521年)に家督を継ぐ。しかし、その相続の合間をついてそれまで交易などで対立を繰り返していたアイヌの大反乱が勃発した。義広はこれを武力で徹底的に鎮圧しようとしたが、アイヌの攻勢は激しく、一時期は滅亡の危機にまで追い詰められたという。しかし、天文5年(1536年)、義広はアイヌの首領であったタリコナを謀殺して反乱を鎮圧し、その後は道南における支配権の確立に努めたのである。

蠣崎 季広(かきざき すえひろ)は、蝦夷(現在の北海道)を支配した蠣崎氏の第4代当主。

生涯
永正4年(1507年)、第3代当主・蠣崎義広の子として生まれる。父・義広が天文14年(1545年)に死去した後、家督を継いで第4代当主となる。

父の時代からアイヌと対立し、抗争を繰り返していたが、季広は父の政策から転換して天文18年(1549年)(もしくは天文20年(1551年))にアイヌと和睦し、道南地方の支配権を確立した。家臣団の編成やアイヌとの交易権の独占により蠣崎氏の強化を図った。なお、この和睦については前年に蝦夷地入りしている安東舜季の主導によるものという説がある。

しかし、この頃の蠣崎氏は、まだ安東氏の支配下にすぎなかった。そのため、季広は安東氏の要請にこたえてたびたび兵役の負担を強いられている。一方で季広は13人の娘たちを安東氏のみならず奥州の諸大名と娶わせて姻戚関係を作り、系譜上安東氏と対等の関係に立とうとしたとも見られている。松前藩史「新羅之記録」によると息子の慶広が豊臣秀吉の直臣となったことを喜び、「自分はこれまで檜山屋形(安東氏)に仕えてきたが、おまえは天下の将軍(原文のまま)の臣となった」と言い、実の息子を伏し拝んだと記載されている。名実とともに独立大名になったのは豊臣政権下だが、その下地は季広が築いたといえる。

天正11年(1582年)、3男の松前慶広に家督を譲って隠居する。文禄4年(1595年)に死去。享年89。

家臣
小平季遠
長門広益
蠣崎基広

2009年01月21日

相手プレーヤーの頭上の空中へとボールを飛ばす打ち方

スクープ
ボールをすくい上げて、相手プレーヤーの頭上の空中へとボールを飛ばす打ち方。ホッケーにはデンジャラスプレーの反則があるので、膝より上にボールを浮かすことは基本的に反則になるが、その例外の一つがこのスクープである。スクープは相手の頭上へとボールを飛ばすため、相手のプレーヤーはそのボールが落下してくるまでは絶対カットできない(頭上のボールをスティックでとめるのはハイスティックの反則)。従って、自陣から相手陣へと、確実にボールを前へ運びたいときに非常に有効な技術である。ビハインドフリーヒットや自陣低い位置でのラインセットのときに特によく使われる。

スクープはボールの上がり方が不十分だったり、相手プレーヤーが近くにいるときに使うとデンジャラスプレーの反則を取られる。またスクープでボールを飛ばしても、ボールの飛距離が不十分だと陣地を稼げず意味をなさない。そのため実戦で使うには、安定的に30?40ヤード以上飛ばす技術が必要である。

フリック
専らペナルティーコーナー時のシュートとして使う打ち方で、ボールを地面で引きずった後浮かして飛ばす。プッシュの応用版といえる。スクープに似ているがスクープより軌道が低く、速いボールを飛ばせるのが特徴。ペナルティーコーナーのときは、ヒットシュートは浮かしてはいけない。一方でフリックシュートは浮かしてもよいので、ゴール上隅を直接狙うことが出来る。フリックはヒットに比べてスピードは出にくいが、狙えるゴールの面積が広いのでペナルティーコーナーのときに重宝するのである。優秀なフリッカーがいるかどうかでチームのPCの決定率、ひいては得点力が大きく左右される。サッカーにおける優秀なフリーキッカーと同じく、貴重な存在となる。

リバースヒット(ローリバースヒット)
ホッケーでは普通体の右側にあるボールを打つが、このリバースヒットは体の左側のボールを打つ特殊な打ち方である。スティックを地面にと平行に寝かし、エッジを使って打つ。完全にマスターすると非常に強いボールを打てる。体の左側にあるボールを右側に持ちかえずにそのままシュート、クリアできる。レフトサイドのポジションは左側でボールを操作する場合が必然的に多くなるため、レフトサイドのポジション、特にレフトウイングには必須技術ともいえる。また、6人制ホッケーでは数年前まで安全面でのことなどからリバースヒットは禁止されていたが、現在は認められている。

タッチ
相手ゴール前で、味方からのセンタリングパスや味方の打ったシュートにスティックでさわり、ワンタッチでボールのコースを変えてゴールを狙うこと。ホッケーではサークル外からのシュートは得点にならないが、サークル外で打ったシュートをサークル内で他の選手がタッチしてからゴールに入ればもちろん得点になる。

ディフェンス
ホッケーにおいては、ディフェンスの際もスティックの表側(平らな面)しか使うことが出来ない。スティックの裏側でボールに触ればバックスティック、体でボールをとめればキック、体で相手の動きを妨害したらオブストラクションと、様々なファールをとられる。従ってディフェンスの際はスティックの表側という限られた面積を出来るだけ有効に使うことが必要となる。具体的には、ホッケーのボールは基本的には地面を転がっているのであるから、ディフェンスのときは出来るだけスティックを地面に平行に近い位置まで下ろし、ボールに対してアプローチできるスティックの面積を増やすことが重要である。スティックを地面に下ろすためには腰を低くしなければならない。同時に相手の切り替えしやスピードに対応できるようなフットワークも必要になる。

タックル
スティックを地面に下ろして相手の保持するボールに対して振って奪うこと。

ブロック(ブロッキング)
スティックを地面に下ろしたまま、相手の進行方向にあらかじめ置いておいて、ボールを奪うこと。

ジャブ(ジョブ)
片手で持ったスティックの先端で相手の保持するボールを突くこと。ボールを奪うことももちろんだが、たとえ奪えなくともジャブを突くことで相手に対してプレッシャーをかけ、ミスを誘発することができる。このことから、相手をチェックする場合、ジャブが利用される。また相手の視野を狭くさせて、複数のディフェンダーで囲みやすくする。ジャブを出した後の体勢は隙が大きいので、出したらすぐにスティックを引いてもとの構えに戻ることが重要。

ポジション
ホッケーではスティックの片面しか使えず、なおかつ左利き用スティックというものが存在しないために、全ての選手にとって自分の体の右側でボールを扱う方が左側で扱うより簡単である。従ってホッケーでは右サイドからの方が攻めやすく、左サイドからの方が攻めにくい (逆に右サイドの方が守りやすく左サイドの方が守りにくい) 。従って、右サイドのポジションの方が攻撃における役割が大きく、左サイドのポジションの方が守備における役割が大きい。 以下で最もポピュラーな3-3-3-1システムにおける各ポジションの役割を説明する。

フォーメーション
*3?3?3?1 システム
人工芝でプレーされるようになった現在、最も多く用いられるスタイル。
LW CF RW
LI CH RI
LH ST RH
SW
GK

フォワード (FW)
攻撃面での役割は、シュートを撃ったりPCを獲得したり、ラストパスを出して得点シーンに絡むことである。守備面での役割は、前線からのフォアチェックをかけて相手の攻撃を遅らせたり、相手のパスコースを限定したり、相手のミスを誘ったりすることである。ホッケーにおいてFWは絶えずポジションチェンジを繰り返すのが基本であり、一人の選手が試合の時間帯に応じて、RWの役割をしたりCFの役割をしたりLWの役割をしたりする。

ライトウィング (RW)
チームで最も右前に位置取る、攻撃の急先鋒。右サイドの高い位置でパスを受けてそこからドリブルで右サイドをえぐり、PCを獲得したり、センタリングを上げるのが仕事。チャンスがあれば切り返してのリバースシュートも狙う。守備面での役割は相手のLHをマークすることだが、チーム11人の中で最も守備を要求されないポジションと言える。
センターフォワード (CF)
相手のゴール真ん前に位置取り、センタリングをゴールに押し込む。サークル付近でのRW、LWとの細かい2人パスなど、確実性、そして素早く機敏な動きが求められている。また中盤まで下りてのポストプレーも求められる。守備では相手のST・SWをマークすること。
レフトウィング (LW)
右サイドから流れてきたセンタリングをゴール前で確実に押し込むことが要求される。左サイドでボールをもらったらサークルに入ってPCを取ったり、中に切り返してシュートを狙う。しかし、LWはポジショニング上必然的に右側でシュートを打つのは難しい。そういった場合、リバースヒットを使用するため、リバースヒットの習得がLWには求められている。守備では相手のRHのマークであるが、RHはチームの攻撃の起点であるので、相手のRHを自由にさせないということはチームの守備において非常に重要である。従ってLWはFWの3人の中で最も守備を要求される。

ミッドフィルダー (MF)
攻撃面での役割は、パスを捌いて攻撃を組み立てたり、ときに自分でサークル内に入ってシュートを撃って得点を狙うことである。守備面での役割は中盤のスペースを見てパスカットを狙いつつ、相手の中盤のマークについて自由に攻撃させないことである。

ライトインサイド (RI)
味方から右サイドでパスを受けたあと、味方のFWにボールを繋ぐのが仕事。自分でドリブルで進んで距離を稼ぐプレーも求められる。右攻めの中心でありチームの攻撃の要。俗にエースポジションと呼ばれる。右攻めがどれだけスムーズに運ぶかはRI次第と言っても過言ではない。守備面では相手のLIをマークすることである。
センターハーフ (CH)
攻守の要である。攻撃面では、味方のDFから受けたボールを確実にRHやRIに受け渡す仕事が要求される。DF面では相手のCHをマークするだけでなく、中盤のセンターと言う最も危険なスペースを埋め、相手の中央突破やロングパスをケアする。CHが確実にボールを捌くのはチームの攻撃にとって不可欠なプレーであり、逆にCHがボールを奪われると一気にピンチになる。キープ力、トラップ力、視野の広さ、素早いモーションでの正確なパスなど様々な技術が要求されるポジションで、チーム1・2の実力者を配置することが多い。
レフトインサイド (LI)
相手のエースRIをマークすることが最大の仕事。LIが相手のRIを直接押さえ込むことはもちろん、味方のLWやLHと連携した左守りの中心と言える。攻撃面では自陣左サイドのボールをCHやFBに渡して右サイドに持って行かせる役割や、ゴール前に飛び込んで右サイドからのこぼれ球を押し込む役割が要求される。時に左サイドからの強引なドリブル突破やセンタリングを出すこともある。
らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ

ディフェンダー (DF)
攻撃面では、アウトレットの基点になって攻撃を組み立てる役割を担う。守備面では、相手のFWをマンツーマンでマークして仕事をさせないことが仕事になる。

ライトハーフ (RH)
DFではあるが攻撃面での役割が非常に大きいポジション。ホッケーは右サイドからの攻撃が中心であり、その右攻めの起点となるのがRHである。味方のFBやCHから右ライン沿いでボールを受けた後、RIやRWと連携しながらボールを前へと運んでいく。RHのところでボールがとまると攻撃にならない。長短の正確なストロークや確実なキープ、その場その場での最善のプレーを選択する判断力などが特に要求される。このように攻撃面での役割も大きいがDFであるので当然守備面でも多くを要求され、相手のLWを確実にマークしなければならない。RHは攻守に渡って多くの仕事を要求されるポジションであり、試合中は右サイドを何度となく上がり下がりしなければならず、もっとも体力を必要とするポジションの一つと言ってもよい。
ストッパー (ST)
二人のフルバック (FB) のうちCFのマークに付く方である。一番の仕事は相手のCFにマンツーマンで付いて仕事をさせないことである。一対一の守備力もさることながら、パスコースを読んで相手CFへのパスをカットする能力も重要である。攻撃面ではSWとともにアウトレット (自陣低くにあるボールを相手のDFを掻い潜りながら敵陣に運ぶこと) の起点になるので、スイープやヒットを強く正確に打つ能力が要求される。
レフトハーフ (LH)
守備面では相手のRWのマークが仕事であるが、多くのチームは右サイド (つまり守る側にとっては左サイド) から攻めてくるため守りの負担は大きい。LIと協力して相手の右攻めを食い止める役割である。STと同じく一対一の粘り強いディフェンスやパスカットのための読みが求められる。大抵のチームは右から攻めることが多いため自軍の攻撃にはあまり絡まない。攻撃面の仕事は右サイドが混んでいたときに次善の策として左に回ってきたボールをシンプルに捌くことくらいである。まれに味方の右奥でのセットプレーのときに相手ゴール前に上がっていってタッチシュートを狙うこともある

スイーパー (SW)
ホッケーの守備の大前提としてマンツーマン (例えばLHは相手RWを、LWは相手RHをそれぞれマークする) があるが、その唯一の例外がこのSWである。FB二人のうちの一人であるがSWはマークを持たない。守備の局面において常に人数的に余った存在である。つまり味方のマンツーマンのマークがしっかり機能している限りは、守備のときはSWの分だけ常に一人分人数有利になっていることになる。マークを持たないためボールに集中して守ることができるので、相手のセットプレーのときはボールと味方ゴールとを結ぶ直線上に立ち最も危険なコースをふさぐ。相手がドリブルを仕掛けてきたときは、マーカーと協力して二人でボールを奪う。また味方が抜かれて来て相手がフリーになっているときには自分がマークにつく。ディフェンス全般に関する指示出しも行う。このように守備の最後の砦とでも呼ぶ存在である。攻撃面での仕事はSTと同じ。
ライトバック (RB)
二人のFB (ST・SW) のうち右サイドに位置する方である。ST・SWは守備時における役割に注目した呼称 (マークを持つか否か) であるのに対し、RB・LBは攻撃時における役割に注目した呼称 (右側に位置するか左側に位置するか) である。
レフトバック (LB)
二人のFBのうち左サイドに位置する方である。

ゴールキーパー (GK)
ゴールキーパー(GK)
ゴールマウスを守る最後の砦。ゴールキーパー(GK)は、サークル内であれば全身を使ってボールに触れることが許されている。そのため全身に防具を付ける。ゴール枠に飛んできたシュートを止めることが最大の役割であるが、最後尾に位置する性質上味方守備陣への指示を出すことも非常に重要である。